2019年6月、Twitter上で、ある投稿が話題を呼んでいます。
東京に暮らす共働き夫婦の妻が投稿したもの。内容は、夫が育児休暇を取得し
たところ、育休明け2日目に東京本社から関西地方への転勤を命じられたという
ものです。その夫婦は、幼い子ども2人を抱え、かつ、新居を建てて引っ越しし
た直後(上の子は保育園を転園したばかり)で妻のフルタイム復職も控えている
(下の子は保育園に入園するところ)状況です。夫が単身赴任になるのはとても
無理だからと、人事、労働組合、労働局へと相談を重ねたものの、転勤の延期も
認められず、退職を余儀なくされた(かつ退職日が指定され、有給休暇取得も拒
否された)という経緯を投稿したものです。夫の退職日の翌日に投稿されたもの
でした。
投稿に対して多くの共感、アドバイスが寄せられる中、投稿した妻は、「自分
たちはもう吹っ切れていたけれど、こうした問題はたくさんの人に知ってもらわ
ないと駄目なのではないか、と思うようになりました。」(下記日経ビジネスの
記事より)と、会社名のヒントとなる情報を加えて投稿しました。その結果、会
社(と思われる企業)の株価は下落し、6月3日に年初来安値となりました。
これらの経緯を受け、日経ビジネスが夫婦及び会社の双方へ取材して記事を発
表するに至りました(記事はこちら
→https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00030/060300015/)。
ここでは、配転(転勤)について注目して検討してみたいと思います。
日経ビジネスの記事によれば、夫婦は人事、労働組合、労働局に相談を重ね、
いずれにおいても会社の転勤命令は違法ではないとの助言を受けていました。こ
れは正当な助言だったのでしょうか。
労働法において配転(住居の移転を伴う場合は転居転勤)はどのように扱われ
ているのでしょうか。一例として『労働法 第2版』(和田肇ほか、日評ベーシ
ック・シリーズ)を見てみましょう。
「使用者に配転命令権が認められても、その行使が労基法3条等の強行法規
に反してはならない。また、配転命令権の行使は権利の濫用となってはならず、
権利濫用とされた配転命令は無効となる。判例は配転命令が権利濫用となるケー
スを以下の3つに大別している。まず、①業務上の必要性が存しない配転命令で
ある。この業務上の必要性は、労働力の適正配置、業務の能率増進等で足りる。
また、業務上の必要性があっても、②嫌がらせや退職に追い込むなどの不当な動
機・目的による配転命令は権利濫用となる。
さらに、③「労働者に対して通常甘受すべき程度を著しく越える不利益を
負わせる」配転命令は権利の濫用となる。
(中略)
これに対して最近では、ワーク・ライフ・バランスの視点が重視されるよ
うになっている。2001年に育児・介護休業法が改正され、人事異動に際して労働
者の育児または介護の状況に対する配慮を使用者に義務づける26条が追加され
たこともその一助となっている。たとえば共働きで3歳以下の子どもが重度のア
トピー性皮膚炎に罹患している事案で、同条が引用され、配転命令を強要する態
度に終始したとして権利濫用にあたるとされている(明治図書事件・東京地裁平
成14年12月27日)。使用者が労働者の意見聴取を全く行わずになされた配転命令
は、同上に違反し権利濫用にあたり無効とされる(ネスレ日本(配転)事件・大
阪高裁平成18年4月14日)。さらに、家族の介護が難しくなるケースにおいても
同様の判断がされている(NTT東日本事件・札幌高裁平成21年3月26日)。
2007年の労働契約法制定では、仕事と生活の調和への一般的配慮義務が使
用者に課されており(労契法3条3項)、ワーク・ライフ・バランスへの配慮が労
働法において次第に重要な位置を占めつつある。先の最高裁判例の判断枠組みは、
その点で修正を受けていると考えることができる。」とされています(同178~
179頁)。
このように、2001年の育児・介護休業法改正、2007年の労働契約法制定におい
て、それぞれ労働者のワーク・ライフ・バランスへの配慮が様々な形で法文化さ
れたことを受け、配転命令が労働者にとって著しい不利益になるとして権利濫用
(違法無効)との評価を受ける範囲が以前より広がっているとの評価がなされて
います。
では、このケースについてはどう考えたらよいのでしょうか。
共働き世帯で、4月に新居に引っ越して10日後、生後わずか3~4か月(転
勤命令発令時点でも4~5か月)の乳児の育児休暇を夫が取得終了して2日目、
(以下は記事の元となったTwitter投稿によって事情を補足しますが)さらに2
歳の上の子がおり、転園・入園ができたばかりの状況で、妻も2週間後には復帰
するという、4月22日に東京から関西への転居転勤を夫が命じられる、という
状況が本件の事情です。仮に、夫が転勤に応じれば、妻と子は、妻の職場復帰直
後からワンオペ生活(かつ、下の子は生後4か月前後と極めて幼い)を強いられ
ることになります。この状況に対して、会社が労働者の育児の状況に配慮した
(育児・介護休業法26条)、とは言い難いのではないでしょうか。生後4か月の
下の子がいるということは、出産した母(妻)も産後4か月。2歳だという上の
子のこととも考えれば、父(夫)は家族にとって必要です。少なくとも、会社が
この点十分に配慮したのか、疑問が生じる余地が大いにあります。
また、日経新聞記事によると、夫は転勤を全否定していたわけではなく、せめ
て1~2か月後にして欲しいと交渉していたとのこと。会社はそれも否定して、
予定どおり1か月以内の転勤を命じています。子どもたちの状況と比べ、転勤時
期延期さえ認めないほどの転勤の必要性がどこまであったのか、という点も問題
になるでしょう。
さらに、本件ではパタニティ(父性)・ハラスメントも問題となります。男性
従業員が育児休暇を取得したのは、夫が配属されていた東京本社では2人目であ
ったようであり(会社規模、連結含め約1万人)、会社内で歓迎されていなかっ
た可能性が否定できません。そして、男性の育休取得は4週間と決して長期間で
はなかったのに、取得前に転勤については打診が全くなされておらず、取得明け
2日後に突然告知されたという事情も認められるようです(以上は妻のTwitter
投稿による)。転勤時期変更すら認めず、自主退職を申し出た後の有休取得も認
めない姿勢からは、何としても転勤に従わせるか、さもなくば退職させるという、
会社の強い意思すらうかがわれます。
2019年6月6日、この記事で取り上げたSNS投稿につき、株式会社カネカ
が、自社の元従業員に関する投稿であることを認め、自社HP上で公式見解を発表
しました。公式見解においては、記事で取り上げた元従業員に対する転勤内示が
育休明け直後となったこと、着任日を伸ばして欲しいとの希望があったことをカ
ネカ側が認めています。
このような本件においては、少なくとも、相談を受けた労働行政、労働組合に
は、法令の趣旨に反するので違法となり得ること及び、夫が育児休暇を取得した
ことへの報復的人事である可能性が否定できないこと(パタニティ・ハラスメン
ト)を踏まえた対応をしていただきたかったと考えます。とくに、育児事例に関
する転勤の限界については、先ほど引用した教科書の記述のように、まだ裁判例
が集積中であり、権利濫用と評価される範囲が広がりつつある最中といえます。
その中で、本件の転勤命令が「違法ではない」と明言できるのか、事情を見る限
り、率直にいって疑問なしとは言えません。
さらに、そもそも転勤(配転)についても考え直すべき時期はないかと私は考
えます。
日本の裁判所では、もともと、転勤(配転)に関する使用者の広い裁量が認め
られすぎてきたのではないでしょうか。
弁護士になって間もないころ、私は、理由なき子会社への転籍出向を拒んだ5
0代労働者に対して広域配転を行い単身赴任を余儀なくされたことに対して、集
団的にたたかった事件の陳情団に同行して、ILO(国際労働機関。本部はスイ
スのジュネーブ)へ要請行動へ出掛ける機会を得ました。家族的責任に関する部
会が陳情を受けてくださいました。
ですが、いくら陳情団が実情を訴えても、少しも委員に響かないのです。委員
も陳情のポイントが分からないようで、「どうしてだろう?」とお互いがコミュ
ニケーションのギャップに戸惑いを感じ、その原因を探り始めたころ、ある委員
が突如として「もしかして、あなた、一人で転勤させられているの?!」と述べ
たのです。そうです、委員たちには「単身赴任」の実例を見聞きした経験はなく、
想像すらできない事柄であったのです。そのため、労働者が50代になり、時に
持病と闘病しながら働く中で、会社によって単身赴任させられているなんて、思
いもよらなかった。だから、陳情のポイントをつかむことが、最初はまったくで
きなかったのでした。
転勤(配転)に関する、労働法の国際水準と、日本の実務取扱いの差を大きく
感じた瞬間です。
そもそも、労働者の労働契約上の債務は、一定の労働時間を使用者の指揮命令
に従って労働するということです。労働者は、生活の場所、子どもの保育・就学
環境、家族の就労環境、友人関係、そういうものを含む生活すべてを会社に捧げ
る契約はしていません。
ですが、転勤(配転)命令は、単に就業場所を変えるのみならず、生活の場所、
子ども・家族の環境、友人との関係、そういった私的な生活を根こそぎ奪ってい
きます。夫の転勤についていき、全国各地の社宅生活を送った方からは「転勤先
で、どこでも、私は『○○さん』(○○は夫の会社の名前)と呼ばれたのよ。社
宅の人はしょっちゅう入れ替わるでしょう?だから名前を覚えてももらえない生
活だったの」と、転勤生活のつらさを訴えておられました。夫の転勤次第で生活
が変わるため、自分の生活の見通しはなかなか立たず、フルタイムの就業もでき
なかったとのこと。社会全体が「妻も子も、夫の付属物」という、時代錯誤の、
誤った考え方をしているからこそ、何とか転勤(配転)命令制度が成り立ってい
るにすぎません。
会社が予め就業規則に転勤ありと記載しておくだけで、都度、労働者の個別同
意を得ることもなく転勤(配転)命令を出すことができる。その転勤(配転)命
令1つで、家族まで生活を大きく変えさせられる。このような、日本独自といえ
る転勤(配転)命令のおかしさについても、もう終わりにすべき時が来ているの
ではないでしょうか。
弁護士田巻紘子